徳川家の旗本のうち、大身の旗本というのは、大体、何石以上の旗本を指すのでしょうか?どこからが大身かというボーダーラインは、なにもきまりはないのでそれぞれ考え方にもよりますが、一万石以下の幕臣の場合は三千石以上は無役の場合 寄合は知行高3000石以上の無役の旗本、小普請支配は3000石以下の無役のお目見・旗本を指す。 ... が、役高はその役職相当の格式を維持するために支給されるもので、例えば役高1000石の役職に家禄600石の者が就くと、その差額の400石が役高として支給される

元和2年(1616年)、土岐・恵那・可児郡の内で1,600石を統治した旗本・馬場昌次が父の菩提のために建立した馬場氏の領内菩提寺です。寺には馬場氏代々と僧侶の使用した駕籠や詩経物産図譜などがあり、本堂裏には馬場氏累代の大きな墓石があります。 ここからは上級の旗本で「高の人」と呼ばれ非役になっても三千石以上は小普請入りとはいわず寄合といい、参勤交代のように時々お暇を頂いて知行所に帰る事もある。これを交代寄合といった。よく時代劇で寄合旗本の~と言うのを聞くことが多いと思います ですから、旗本の出陣総数は、約6万9,000人になります。 23人×600石/1000石×5,000人=69,000人 旗本だけでは「旗本八万騎」に若干足りませんが、これに御家人約1万7,000人を加えれば8万6,000人の大軍になります。 小出助四郎 1000石 銃隊8人 内士分2人在京、士分4人・足軽2人知行所に差置 武島せん之助 1000石 銃隊5人 知行所 小堀権十郎 1000石 銃隊5人 片桐内蔵助 1000石 銃手8人 本多岩次郎 1445石 銃手7人 山口藤五郎 700石 銃隊3人 池田福次郎 600石 銃隊6人

600石の旗本だった田沼意次は、9代将軍になる家重の「西の丸小姓」に抜擢された後、10代将軍家治の信任も厚かったため、遠江国相良藩1万石の大名、そして安永元年(1772)に「老中」に昇りつめた。 旗本浅野家は、現在の兵庫県相生市若狭 野に陣屋を構えていた大身旗本で(知行3000石)、あの元禄赤穂事件で著名な赤穂浅野家の分家です。しかも、赤穂事件の立て役者大石良雄の父の従弟長恒 が浅野家の養子となって成立した旗本でもありました。 (水野氏陣屋)旗本、水野家5700石 : 中村代官屋敷 (小林氏陣屋)旗本小林家600石 家康夏の陣本陣跡 : 兵庫県: 若狭野陣屋 (浅野氏陣屋)浅野家3000石 元赤穂藩浅野分家: 家原陣屋 (浅野氏陣屋)浅野家3500石 元赤穂藩浅野分家 : 糸井陣屋 7500石を知行し交代寄合に列しました。その子頼次は弟幸広に500石を分知して 7000石を領しましたが、嗣子なく絶家となりました。幸広の子孫は500石の旗本 として存続しました。 そして安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ老中兼任、前後10回の加増で600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進、側用人から老中になった初の人物に。 寄合は知行高3000石以上の無役の旗本、小普請支配は3000石以下の無役のお目見・旗本を指す。 ... が、役高はその役職相当の格式を維持するために支給されるもので、例えば役高1000石の役職に家禄600石の者が就くと、その差額の400石が役高として支給される (水野氏陣屋)旗本、水野家5700石 : 中村代官屋敷 (小林氏陣屋)旗本小林家600石 家康夏の陣本陣跡 : 兵庫県: 若狭野陣屋 (浅野氏陣屋)浅野家3000石 元赤穂藩浅野分家: 家原陣屋 (浅野氏陣屋)浅野家3500石 元赤穂藩浅野分家 : 糸井陣屋

豊臣氏滅亡により浪人。江戸に出て、1617(元和3)年、徳川秀忠に旗本に召し上げられ、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地500石を賜る。鵠沼村の村高が約600石、後に采地を賜った布施家が220石だから、大橋家采地の鵠沼村分は300石強だったと考えられる。